1976年/日本・フランス/監督:大島渚/出演:藤竜也、松田暎子、中島葵、芹明香、殿山泰司、阿部マリ子、三星東美、藤ひろ子
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この記事は大損ウェルズ氏に寄稿いただいたものです。


古今東西の映画及び関連書籍をしこたまあさってきた映画狂、大損ウェルズ氏のうんちくをお楽しみください。

生前、大島渚はその評価が世界的で、知名度からすると、溝口健二、小津安二郎、黒澤明の三大巨匠に次ぐ存在だった。
現在では宮崎駿、是枝裕和、今村昌平、濱口竜介、そして戦前からの巨匠・成瀬巳喜男の名声が高くなっているが、それでも大島の代表作である【絞死刑】はオールタイム・ベストの催しで今でも名前が挙げられる。
【戦場のメリークリスマス】、【マックス・モン・アムール】はそれぞれ世界的なスターを起用した外国資本の映画で、当時は「世界の大島」として鼻息も荒かった。ところが、その少し前までの大島は熱心な同志やファンがいたとはいえ、主に1000万円という超低予算でアートフィルムを撮っている前衛的な監督でしかなかった。
ではなぜ大島の名声は世界的に広がったのか?
1970年代半ばまで毀誉褒貶 はありながらも着実に映画製作を続けてきた大島は、ATG公開の【夏の妹】を最後に製作母体となってきた創造社を解散。そしてフランスの有名プロデューサーから誘いを受け、本人にとって初の(そして最後の)ポルノ映画を監督する。
それこそがアートポルノとして歴史に残ることになる【愛のコリーダ】だった。
大島の世界的名声はこの作品がカンヌ映画祭で上映され、コンペティション外ながら大きな反響を呼ぶところから始まる。
映画【愛のコリーダ】のあらすじザックリ
映画における性の解放
大島渚にとって【愛のコリーダ】の製作は、官憲への挑戦という意味合いがあった。
性というのは抑制の効きづらいもので、それだけに政府は強権的であればあるほど売春、準売春などのセックス産業を厳格に管理し、放恣な欲望の解放に目を光らせる。それは性的な描写のある映画に対しても同じで、ずっとポルノはご法度であり、製作されたとしても非合法な形だった。

ところが1960年代からヒッピー文化の世界的広がりとともに映画の性描写への制限が緩和されてゆき、最終的には“ハードコア”、つまり実際の性行為を撮影した作品も正式な配給ルートで堂々と公開されるようになった。ただそれらのポルノ映画はマイナーな製作者たちが作るもので、作品としての質もそれほど高いとは言えず、見る層も限られているから影響は小さい。
そんな中、ベルナルド・ベルトルッチが問題作【ラストタンゴ・イン・パリ】を発表する。
1972年/イタリア/監督:ベルナルド・ベルトルッチ/出演:マーロン・ブランド、マリア・シュナイダー、ジャン=ピエール・レオ、マッシモ・ジロッティ、カトリーヌ・アレグレ、カトリーヌ・ブレイヤ注※このサイトは映画のネタバレしよ[…]
新進気鋭の一流監督がハリウッドの大スターとともに製作したこの傑作は、その大胆な性描写が話題となり、イタリアでは猥褻とされて訴えられた。
ポルノでは当たり前に出てくる性行為が、高い藝術性を備えた作品で描かれていたために騒ぎになったのだ。
イタリア以外でも一部カットを要求した国が多く、これにより、改めて映画における猥褻の問題がクローズアップされた(ちなみに【ラストタンゴ・イン・パリ】は日本でも公開されたものの、見るも無残な形で修正が施された。そのため、オリジナルを見た映画評論家たちが、一斉に映倫や配給会社に異議を唱えている)。

大島が【愛のコリーダ】を撮ることになったのは、高い芸術性を備えたセックス映画が可能だ、ということが【ラストタンゴ・イン・パリ】で判ったからだ。
製作そのものが挑発的だった芸術ポルノ
【愛のコリーダ】は日本とフランスの合作映画で、撮影は日本で行われた。
ただ日本の現像所では本物の性行為を撮ったフィルムを受け付けてもらえない。
そこでネガはフランスで現像され、編集などのポストプロダクションもすべて大島がフランスに飛んで済ませた。

無名時代からの大島の盟友であり、その作品の支持者である評論家佐藤忠男は「大島渚にとって映画製作自体が政治運動だった」という意味のことを書いている。
【愛のコリーダ】についても
「出来上がった作品(【愛のコリーダ】)は原版そのままの上映が可能な国ではそれで公開し、検閲のある国はそれに従う。
つまり日本では非常に多くの部分がボカし処理によって画面が見えなくなる不完全版でしか上映されないことになるが、多くの外国では完全かほぼ完全な版で見られるのに日本ではそうはゆかないということ自体が、日本の警察の圧迫に対する批判という意味を持つことになる」
と大島の狙いをはっきりと書いている。

実際、この映画はそのままでは到底日本で上映できないほど、ハードな性描写に満ちている。
それはAVの普及もあって様々な性行為に対して鈍感になった現在でも、ちょっとした衝撃を与えるほど強烈なものだ。
作家としての勝利
「結局のところ、大島渚のすべての映画が全体として語りつづけていることの核心にあるものは、人間はいかにして真に反抗者であり得るか、という問題である。このことは言いかえれば、人間はいかにして真に自由であり、主体的であり得るかという問題である」(佐藤忠男)
松竹というメジャーな撮影所にいた時から政治的な映画を撮ってきた大島にとっては、性描写がショッキングであればあるほど権力側の神経を逆なですることが判っており、それをあえて強調したところがある。
海外のプロデューサーから映画製作の依頼があったことを有機的に用い、性という武器でこれまで以上に反権力的な表現をしようと決意したのだろう。

ただ、それがポルノに対して厳格な態度を取っている日本だけでなく、世界的に反響を呼んだことは、大島というスキャンダラスな作家にとって大きな勝利だった。
映画【愛のコリーダ】の感想一言

【愛のコリーダ】が製作されてから46年経つ。以前と違ってネットも普及し、検閲の意味も日常では無意味に近い。
そろそろこの映画の無削除の原版も、限定的でもいいので日本公開すべきかもしれない。

……とはいえ無修正の【愛のコリーダ】を映画館で観るのって勇気が要るよね。
なにしろあんな風になった吉蔵のアレやら、そのアレをアレしてる場面やらが普通に映し出されちゃうんだから。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
そんなあなたが大好きです。