1954年/イタリア/監督:フェデリコ・フェリーニ/出演:アンソニー・クイン、ジュリエッタ・マシーナ、リチャード・ベイスハート、アルド・シルヴァーニ、マルチェッラ・ロヴェーラ、リヴィア・ヴェントゥリーニ/第29回アカデミー外国語映画賞受賞
注※このサイトは映画のネタバレしようがしまいが気にせず好きなこと書いてます!未視聴の方はご注意ください!
この道を行けばどうなるものか
危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし
踏み出せばその一足が道となり
その一足が道となる
迷わず行けよ 行けばわかるさ
いやいや、アントニオ猪木の引退試合後の名スピーチ「道」や「道」。本日の映画タイトルにちなんだんですやん。めっちゃ泣けたんやからマジで。
ちなみにこれ、アントニオ猪木の言葉やと思ってる人がいるけど違います。
猪木自身も一休さん(一休宗純)の言葉やと思ってたらしいけどそれも違う。
思想家の清沢哲夫って人の詩をアレンジしたものなんだって。
かく言う私もスピーチ聞いた直後は猪木の言葉やと思ってましたけどね。
閑話休題。
本日の映画のタイトルはその名も【道(1954)】。
「道」って聞くと普通「未来への童貞」…ちゃうわ、「未来への道程」を想像しません?漠然としたイメージでね。「困難な道のり」とか。「栄光への架け橋」とか。「大人の階段のーぼるー」とか。
ゴールに向かう過程にスポットを当てた物語なのかなって思いますやろ?
ところがですよ、【道(1954)】が示す「道」とは、ズバリ「道」。
道路・ロード・小道・脇道・砂利道・悪路・往来・通り・ストリート…具体的な意味での「道」。
家がない者にとっての家にもなり得て、学校へ通えない子供たちにとっての学校にもなり得る。
みんなのものであって誰のものでもない「道」。
タイトル【道(1954)】が指す「道」は、「過程」ではなく「舞台」としての「道」なのです。
映画【道(1954)】のあらすじザックリ
道を往く旅芸人ザンパノと相方ジェルソミーナ
浜辺をフラフラと歩く少女ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)。
「少女」と書きましたが実際の年齢は30歳超えてるはず。しかし小柄な体や短く切って梳かしたふうもないパサパサの髪、化粧っけのない顔からは「大人のオンナ臭」はまるで感じられません。見た目だけでなくどうも言動も幼過ぎる。
どうやら彼女には軽度の知的障碍があるみたい。
ある日、ジェルソミーナが母親に呼ばれて自宅に帰ると、オート三輪に乗って旅をしながら方々で芸を披露する大道芸人のザンパノ(アンソニー・クイン)が訪ねてきていました。
ザンパノはジェルソミーナの姉をアシスタントとして旅をしていましたが、姉が死んでしまったため、代わりに妹のジェルソミーナを買いにきたのでした。
ジェルソミーナと引き換えに手に入れた10000リラを握りしめて号泣する母親。この頃の貨幣価値なんて全然分かりませんけど、映画の内容からかなり安い金額であることがうかがい知れます。
でもほら、ジェルソミーナに群れる弟妹たち(甥っ子姪っ子か?)を見てください。この家には子供たちにお腹いっぱいのご飯を食べさせるお金もないんです。知的障碍を持つジェルソミーナは食べるだけで働けないし、正直に言えば厄介者。
ジェルソミーナは不安な気持ちに蓋をして、家族を悲しませまいと笑顔を作ってザンパノのオート三輪に乗り込みます。
「いっぱい稼いでくるからね!」って言って手を振って。
いきなりこんなんあかんやろこの映画。泣いてないわ。
寝るのも食べるのも稼ぐのも「道」
ザンパノのオート三輪の荷台には、小道具や楽器以外にも、料理するための鍋や食器、着替えや布団などがてんこもり載せられています。
旅芸人のザンパノには家はなく、財産は荷物も含めたオート三輪のみ。
これがこの男のすべて。
オート三輪が走れる道さえあればどこでも行く。
眠くなったらどこででも寝る。
お腹が空いたらどこででも食べる。
お金がなくなったら人を集めて芸をする。
戦後のイタリアの貧困などシリアスな事情は一切考えに入れずに素直に感想を述べるとしたら「便利やなこの生活」。
道をゆく彼らを取り巻く時代背景
オート三輪で旅をしながらザンパノのアシスタントとして芸を学ぶことを余儀なくされたジェルソミーナは、ガサツで乱暴で野獣のようなザンパノの虐待(って言うてええレベル)に耐えながら太鼓の練習に励みます。
殴られようが叩かれようが性のはけ口に使われようが、ぐっと口を真一文字に結んで我慢するジェルソミーナ。怪力の芸を披露するザンパノの隣でポンポコリンと上手に太鼓を叩けた時のジェルソミーナの表情は無邪気な子供そのもの。
やがてこの状況を「まるで夫婦みたい…」と思ったジェルソミーナは、恋のなんたるやも分からないうちからザンパノに恋心らしきものを抱き始めます。
それなのにザンパノは相変わらずジェルソミーナを殴る蹴る。
蹴ってはないかな、いや蹴ってるやろたぶん。
飲み屋で出会ったいかにもなお姉さんをオート三輪に連れ込むような男やからね。その間ジェルソミーナはどうしてたかって?
路上にほったらかしですよ。一晩中。
ホントにろくでもないんよこの男ときたら。
親切なシスター達に教会に泊めてもらった時なんてこうですわ。
いやでもねえ、終盤のザンパノのセリフを聞くと、この行為(世話になった人達から盗みを働こうとする)も情状酌量の余地あり、みたいな、やるせない気持ちになってくるんですよ。
終盤で苛立ちを隠さずザンパノが吐き捨てるセリフはこう。
必死ですよもう。
起きて寝て食べるだけで必死。
生きるのが大変。
もちろんザンパノだけじゃなく、ジェルソミーナだって、ジェルソミーナを10000リラで売った母親だって、この頃のイタリアの人々はみんなが必死だったんでしょう。
そんな時代背景が見て取れる名作です。
ジェルソミーナを導くイル・マット
さて、さしものジェルソミーナも、そんな粗野なザンパノとの生活が嫌になって勝手に家に帰ろうとしたりするんですけどね。案の定見つかってボコボコに殴られた挙句、結局は連れ戻されちゃうと。
そんな折、ジェルソミーナはザンパノがしばらく腰を落ち着けることにしたサーカス団で、道化師のイル・マット(リチャード・ベイスハート)と出会います。
「イル・マット」というのは「狂人」や「奇人」といった意味のイタリア語。古い映画の本ではイル・マットのことをストレートに「キチガイ」と書いているものもあります。
その呼称が示す通り、彼もジェルソミーナ同様、少し頭の弱い人。
頭の弱い者同士、芸達者なイル・マットと人を喜ばせることが大好きなジェルソミーナはすぐに意気投合。イル・マットはジェルソミーナにザンパノが教えなかったラッパの吹き方を教えてくれます。
ザンパノと居た時には絶対に見せなかったジェルソミーナのこの笑顔がたまらなく可愛いんですよ。
本当に無邪気で、楽しそうにラッパを吹きながら踊ってみせる。
イル・マットと出会ったことでジェルソミーナの中に眠っていた何かが目覚め、イル・マットもそんなジェルソミーナを可愛がります。恋じゃなく、本人達にしか分からない絆でつながっているかのような2人。
でもそんな大事なイル・マットを失った時、ジェルソミーナの心は完全に壊れてしまうんですね。
そしてジェルソミーナを失った時、ついにあのザンパノも、ジェルソミーナがかけがえのない人だったことに気付く。
気付いたところでザンパノには泣くことしかできないんだけども。
夜の浜辺で独り。
声を上げて泣き伏すのみ。
馬鹿だねあんた。大事なものに気付ける機会はいくらでもあったでしょうに。
もうどうしようもないから気が済むまで泣きなよし…。
映画【道(1954)】の感想一言
イタリア映画の巨匠フェデリコ・フェリーニの自伝的作品とも言われる彼の代表作のひとつ。
“自伝的”ってのはつまり、自分がこれまでどんな風に生きてきたか、その半生を自分で描くってことですよね?
え、ちょっと待って。
フェリーニは映画の登場人物の誰を指して“自伝的”って言ってんの?
もしかしてザンパノ?!
…嫌やな世界の巨匠があんな所構わずブチ切れては暴れまわる乱暴者やったら。
でもフェデリコ・フェリーニってめちゃくちゃ厳つい風貌してるからね。「ザンパノそっくりの暴れん坊だった」って言われても説得力あるわ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
そんなあなたが大好きです。